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樹の名前を覚えよう
瀬戸瀬薬師山で見られそうな樹木について、ガイドの石原さんにチェックしてもらいました。
樹皮から樹木.pdf
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山 神 様

 

明治27年、南丸の七号駅逓で働いていた佐藤多七は、そこをやめて瀬戸瀬仮監獄のところへ移ってきた。ここは明治24年、中央道路開さくに従事した網走分監の囚人仮泊所と診療所があったところだ。多七が移ってきた時には、大きな草ぶき掘っ立て小屋が2棟、風雨にさらされて壊れて傾き、その1棟の小屋は、大きな『へっつい』4個の跡残っていた。また、道路工事の囚人の亡くなった者を埋葬した墓地があり、「徒刑12年 何の某」と書かれた墓標が67本あった。

 

多七はここに住み始めたが、夜になると地の底から「助けてくれー」「苦しいー」といううめき声が聞こえてきた。そこで多七は、毎日米飯と酒を供えて供養した。すると、7日目から苦悶の声が聞かれなくなり、「ようやく成仏してくれたか」と安心した。

 

中央道路開さくに従事した囚人作業隊は1組220人と言われている。この道路は網走から上川まで57里あまりのうち、北見峠までの出役囚人1115名(つまり5組か)のうち、死亡者186名、患者914名を明治24年12月27日までに出したと「道史」が記している。この死亡率は16%(186÷1115)である。野上の死亡者が67名だとすると、全体の死亡者の36%にあたる。野上の死亡者は診療所を設置した関係もあって極めて大きい犠牲者を出したようである。古老の話によると、沿道の橋の近くでは、昔囚人を埋葬したという塔婆を所々に2~3本見受けたという。

 

野上の塔婆が明治31年の大水害のとき、流失してしまったので、佐藤多七は木を削って、代わりに1本の墓標を立てた。それには「囚人の墓」などと書いたのでは、参詣者がなかろうと思い、囚人の埋葬されているところから300mほど離れた下手道路傍らに、鳥居と”山神“と刻んだ木柱を建てた。その後、多七は、水害でまた流失することをおそれ、石碑に代えた。石碑の大きさは長さ3.64m、幅91cm、厚さ30cm、

 

石碑切り出しにはこんな由来がある。

 

雪深い2月のある日、多七は野ウサギを追って知らないうちに山上に出た。深い雪に足を取られている間にとうとう野ウサギを見失ってしまった。その時、ふと多七の目に入ったのは雪に隠れた見事な岩であった。恰好な岩だと思ったので細木を手にして動かしてみた。すると、極めて簡単に滑り落ちる。最後は、春の堅雪の中、子息の鶴松と3人のアイヌの手伝いを受けて、運び下した。

 

「山神」の文字は当時角谷農場の小作人であった新潟県人の田畑定吉が書いて、これを中沢製軸工場の鍛冶職工の永井藤吉が刻んだものである。出来上がって、付近の人たちと一緒に建碑式を兼ねた祭りをしたのが明治38年12月12日であった。毎年この日に慰霊祭を行っていた。

 

大正9年には労役9人をもって、拝殿を造営し、多七の死後も祭礼を絶やさず、昭和2年旧7月7日、建立23周年記念祭を催した。

 

ところが、太平洋戦争後においても、ここを通ると「悲鳴が聞こえた」「夜、人魂が飛んだ」などの噂が絶えなかったのと、殉難者を路傍にそのまま埋もれさせておくのは忍びないとして、昭和33年5月2日、瀬戸瀬青年団と婦人会が現場を発掘して、46柱もの遺体を収容し、ねんごろに柏墓地へ移葬した。

 

現在の例祭日は旧4月8日で、昭和52年時点で、佐藤幸平が祭事を行っている。

 

(参考資料 ①丸瀬布町史(昭和49年下巻)

 

②遠軽町史(昭和52年)

 

③遠軽町史(昭和32年)

 

 

 

おまけ情報 がんぼう岩上の開拓碑の竿石は、薬師山山麓のものだそうです

 

 

 

薬師山アイヌ伝説 (遠軽町史(昭和32年))

 

その昔、この山にオオカミが棲んでいて、山に登ったものは、帰ってこられなかった。春が訪れると美しい花が咲き、秋には紅葉に彩られこの山を眺めながらも、コタンのものは誰一人としておそれて登るものはなかった。ある秋、にわかに大水に襲われ、オオカミのことも忘れて、この山に這い上がり、2~3のものだけが助かった。➡このことからどんなことが考えられるでしょう。

 

 

 

薬師山 薬師堂 八十八か所

 

薬師山 標高(373.4m 371m)

 

春にはつつじの花が咲き、山頂からは湧別の浜も遠望で来る眺めの良い山である。この山に薬師山という名前が付けられたのは、明治35年に佐藤多七が

 

薬師如来を建立したことに始まるようだ。

 

大正149月には川島千代治の指導により、渋谷卯三郎、鈴木幸太郎、村形長四郎の寄進によって、新たに建て替えられたのが現在の堂である。また、そこからわずかに下向した位置に、瀬戸瀬国防婦人会支部一同が皇紀2600年を記念して、新たに寄進営造した堂がある。

 

霊場八十八か所巡りは、全長2600mある。昭和585月に瀬戸瀬地区の婦人10名(代表 中沢りえ)が中心になって薬師山に八十八体の仏像を建て、霊場にしようと計画、一般の寄進を募った。計画は順調に進み、103日には安置された97体(番外9体を含む)の開眼法要が行われた。

 

(参考資料 ①遠軽町百年史(平成10年)

 

②遠軽町史(昭和52年)

 

③遠軽町史(昭和32年)